ある春の日

amanafu(あまなふ)

2016年11月28日 12:12

(数年前のある春の一日)

時々YouTubeのネットサーフィンをする。

昔の映画音楽に行き着き懐かしく聞きまわり、「ジェルソミーナ」の切ない旋律に聞き入る。

ああ、昔見たなあ、、、

悲しい話だったよなあ、、、

ともう一度見たくなり、近所のレンタルショップに行くが、ない。

そうだ!

図書館の視聴図書としてあるかもしれないと、HPで検索してみる。

あった!



   朝子供を学校へ送りがてら畑に行き、図書館が開く時間まで作業をする。

   畝立てをして葉物を二列種をまく。

   通路も整備。

   葉物の種まきは、実習を入れて4回目なので、手際も良くなかなか板についてきたと思う。



在庫のある図書館は、富士宮市立図書館の支所の西富士宮図書館で車で20分ほどのところにある。

平日の開館直後は人は少なく、視聴コーナーは独占状態という贅沢。

年をとってからしみじみと又映画に感動できるようになったと思う。

人生のきびなどがわかるようになったからだろう、若い頃よりも深く映画が理解できるようになったと思う。

このイタリア映画「道」もああ、こういう話だったのかと、しみじみと泣く。



主演女優は確かこの監督の奥さんだったと思う。

彼女のジェルソミーナなくしてはこの映画はないと思う。

童女のような純真で繊細な感受性。

愛嬌のあるまる顔にさらに大きな丸い目。

彼女のかすみのように移り変わる表情や姿をおうだけで、心が震える。

なんと魅力的なことだろう。



中盤の山場

「辛い人生、なんの取り柄もない自分なんて生きていても仕方がない、死にたい」

と泣くジェルソミーナに

「小石にだって意味はある。君はザンバノの支えなんじゃないか?」

と、綱渡り芸人がヒントをくれる。

彼は死と隣り合わせの高揚とどこか達観した雰囲気を持つ。



ザンバノは、ジェルソミーナをはした金で買って、身の回りの世話や大道芸の助手をやらせ、時には慰み者にもする。

野卑で暴力的で思いやりのかけらもない。

留置場からもどったそんなかれを迎えたジェルソミーナの笑顔は、いつもとはちがっていた。

「もう、家に帰りたいとは思わない。ここが私の場所だって思うの。」

お守りのように小石を握りしめて言う。

彼女に軸ができた瞬間であり、力関係が逆転した瞬間でもあった。



でも粗暴なザンパノに彼女の変化がわかるはずもない。

そもそも彼女のことなど何も理解していないのだから。

彼を責めるまい。

生きることに精一杯は誰でも同じこと。

彼の芸は体力勝負、いつまでのやれる芸ではない。

悪役なのに哀愁を感じる。



そしてラストの慟哭。

一輪の野に咲く可憐な小さな花が人知れず静かに散るようなジェルソミーナの最後。

「ホタルの墓」みたいにありし日の彼女のカットなんか見せない。

主演のアンソニー・クィンのセリフなしの悲しみの名演技でしめるのだ。



涙をふきふきヘッドフォンをカウンターに返し、何冊か本を借りて図書館をあとにする。



帰り道ちょっと寄り道をして「狩宿の下馬桜」を見に行く。

残念ながらお目当ての山桜はすっかりちったものの大きな老木の存在感は十分にあった。

観光名所に立ち寄った事ですっかりプチ旅行らしくなった。



帰りに園芸用品を買って帰宅。

明日はスナップエンドウのネットはりとトウモロコシの種をまこう。


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